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お釈迦さまの教えられたことを正しく知っていただきたいと思います。


      今日の金言

当流の真実の宝というは
  南無阿弥陀仏、
    これ一念の信心なり
         (御一代記聞書)

この世の宝は、いつか壊れる。
喜びも色あせ薄れ、消えていく。

大宇宙最高の宝・南無阿弥陀仏と一体になれば、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
無上の幸せがいつも満ちていると、
絶賛されています。


不平等な運命を、仏教ではどう教えられているのですか? [因果の道理]

(質問)不平等な運命を、仏教では
どう教えられているのですか?

「人はみな平等だ」といわれますが、
とてもそうは思えません。
裕福な家に生まれ、
容姿端麗でスポーツも勉強もできる優秀な人と、
貧しい家庭に育ち才能もない自分とは、
明らかに差別があります。
努力してもどうにもならぬことがあるように思いますが、
これも運命とアキラメるしかないのでしょうか。
こういうことについて親鸞聖人は、
どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
人間は平等であることを福沢諭吉は喝破しました。
白人も黒人も有色人も、
富豪も大臣もホームレスも、
一皮はいだら同じ人間であることに、
なんら違いはありません。

けれども現実は、人間ほど、
不平等、差別の激しいものはありません。
生まれながらの賢愚美醜、強弱貧富などの差別や、
各人の身に起きる様々な事象など、
千差万別、億差兆別、実に複雑怪奇であることは
認めざるをえない事実です。

金持ちの家に生まれる者もあれば、
手から口へのその日暮らしの家に生まれる者もあります。
頭の良い人、悪い人、健康な者、病弱な者、
同じ学校を出ても大學の教授になる人、
会社の部長、家業を経営する人、職業を転々と変わる者、
事業に失敗して自殺する者、妻を亡くする人、
交通戦争の犠牲になる人など雑多です。

このようにすれば、間違いなく、
こうなるだろうと思ってやったことが、
とんでもない結果になって、
この後どうすればよいか、
途方に暮れることもしばしばあるでしょう。
いくら真面目に仕事をしているからといっても、
必ず成功するというものでもないし、
悪人だからといって、
必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、
悪人の成功者も少なくありません。

●正直者はばかを見る?

中国の顔回(がんかい)は、
孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折(ようせつ)しました。
盗跖(とうせき)という大泥棒は、
悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死にました。

この2人の人生を対照して孔子は、
「ああ、天われを亡ぼせり、天われを亡ぼせり」
と嘆息しています。

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このようなことは、
私たちの身辺にもいくらでもあって、
「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」
と、自暴自棄になる人やら、
「これはどうにもならない運命なのか」
と、アキラメ主義になる人もいます。
また、自分が不幸になると「あいつが悪い」から、
「社会が悪い」からと、
それらを怨む人も多いのです。

むろん、本人の注意や努力、環境や社会機構なども、
大いに私たちの運命に関係を持っています。
世の中の仕組みを変えることによって、
少なくすることもできるし、
無くすることのできる悲運もあるでしょう。

しかし、持って生まれた知能指数や性格など、
どうすることもできないものも多々あります。
なぜ、障害を持って生まれなければならなかったのか。
なぜ日本に生まれたのか。
なぜ昭和に生まれたのか。
なぜ、この親の子供として生まれなければならなかったのか、
なぜ、こんな子供を産まなければならなかったのかと、
悲運の原因を模索していますが、
結局は「分からない」とアキラメてしまいます。

三世を知るか否か

ここに仏教は、過去、現在、未来の三世の実在を説き、
それを貫く因縁果の大道理を示します。

私たちの現実は、限りなき時間と限りなき空間の上に成り立ち、
因縁果の道理に従って、過去、現在、未来と続くのですが、
現世だけしか知らない人間の目の届く範囲は
ごく限られています。
だから、現世だけの結果を見ただけでは、
原因のつかみようがないのです。

ただ、間違いないことは、
蒔かぬタネは絶対に生えぬということです。
結果があれば、必ず、
そうなる因と縁とがあってのことなのです。

頼山陽(らいさんよう)は、
釈迦と孔子と相撲をとって負かされている画を描いて、
仏教者の雲華院大含(うんげいんだいがん)に
「この絵に、賛をしてくれ」
と依頼した。
すると大含は、しばらく考えて、
孔子、三世を知らず、
釈迦顛倒(てんどう)して、これを笑う

と揮毫(きごう)したといいます。

人生を、今生だけにとらえて、
道徳倫理生活のみを強調する人も、
親鸞聖人の教えよりすれば、
無知蒙昧(むちもうまい)といわざるをえないでしょう。

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