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お釈迦さまの教えられたことを正しく知っていただきたいと思います。


      今日の金言

当流の真実の宝というは
  南無阿弥陀仏、
    これ一念の信心なり
         (御一代記聞書)

この世の宝は、いつか壊れる。
喜びも色あせ薄れ、消えていく。

大宇宙最高の宝・南無阿弥陀仏と一体になれば、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
無上の幸せがいつも満ちていると、
絶賛されています。


仏法を聞くって大事なの!? [Q&A]

1.仏法は何のために聞くの?

仏法と聞くと葬式や法事を思い浮かべ、
死んでから用事のあるものと思っている人が
多いようですが、それは誤解です。
仏法の目的は「抜苦与楽」。
生きている今、私たちの苦しみを抜き、
幸せを与えることにほかなりません。
人生は、苦しみの花咲く木といわれます。
借金、離婚、病苦、肉親との別れ・・・、
一つの悩みを解決してやれやれと思う間もなく、
別の苦しみがやってくる。
それら苦しみの元を断ち切り、
人間に生まれた本当の喜び、
満足を与えてくださるのが仏法です。

では、そんな幸せにどうすればなれるのでしょうか。

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2.正しい教えを聞くことが大切

本当の幸せになる道は、「聴聞よりほかにない」
と、お釈迦さまは説かれています。

聴聞とは「聞く」ことですが、
落語や漫才を聞くのではありません。
仏法を聞かせていただくことです。
親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。

昔は365日、朝昼晩と説法があった寺も少なくありません。
真宗の盛んな地域では、
「仏法聞けよ、仏法聞けよ」
と言われて育った人も多いでしょう。
もちろん、ただ聞けばよいのではありません。
正しい教えを正しく聞くことが大切です。

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3.どんな気持ちで聞けばよいか

また仏法は、居眠り半分、
あめ玉なめなめ聞ける教えではありません。

親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ

とおっしゃり、蓮如上人もまた、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
と、真剣な聞法を勧められています。

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4.命懸けで聞き聞きすると・・・

ある人が有名な布教使を訪ね、
「ご面倒ですが、後生の一大事、
一言お聞かせください」と言うと、
大喝一声、
後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。
自力の仏法者は、無量永劫、
修行しても解決できぬと泣いているのに、
一日や二日聞いて、助からぬという横着な心だから
信じられぬのじゃ。
変わったことを聞くのではない。
同じことを命懸けて聞き聞きすると、
聞こえてくださるのじゃ
」と答えたといいます。
このような聞法の大切さから、
弊社でも毎月、「聞法のつどい」を開催しています。

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なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか!? [Q&A]

(質問)なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われますように、
この地球上に現れた仏は釈迦唯一人であります。
その釈尊が35歳で成仏してから80歳でご入滅するまでの
45年間の教えがすなわち仏教ですが、
一体釈尊は何を説くのが目的であったのでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』に、
それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
と喝破なされています。

釈迦一代の教えは真実の経、
『大無量寿経』唯一つを説かんがための方便であったのだと
断言なされています。

では『大無量寿経』には何が説かれているのでしょうか。
それは唯、すべての人々が本当に幸福に救われる
阿弥陀仏の本願のみが説かれています。

ゆえに、親鸞聖人は『正信偈』に、
「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、
唯、弥陀の本願のみを説かんがためなり」

と仰せになっております。

釈尊は、阿弥陀仏の使いの者として、
この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。

これを聖人は、
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
」 (和讃)
と仰っています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり釈尊は、
一切経に阿弥陀仏のことばかり褒めたたえていられます。

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)とか、

十方無辺不可思議の諸仏如来、
阿弥陀仏を称讃せざるはなし」とか、
「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり

            (大阿弥陀経)

とか、挙げれば切りがありません。
ゆえに「諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り」
と天台宗のけい渓でさえ驚いているのです。

●すべての仏が称讃される訳

ではなぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し礼拝されるのか。
その理由は『般舟経』に明らかに説かれています。
三世の諸仏は、弥陀三昧(みだざんまい)を念じて、
等正覚(仏)に成る

これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、
仏になったということです。

大日如来も薬師如来も、
そうであるように釈尊もその例に漏れません。
ですからあらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。

本師本仏とあがめたてまるる道理ではありませんか。

三世十方の諸仏たちでさえそうなんですから、
ましていわんや私たちは一向専念阿弥陀仏で、
阿弥陀仏一仏を一向に信じたてまつるより、
絶対の幸福になる道は毛頭ないことを
よくよく知らなければなりません。

阿弥陀仏は光明無量、寿命無量、
智慧と慈悲の仏であることは
多くの経典で明らかですが、

中でも阿弥陀仏の勝徳(しょうとく)は、
光明、智慧、無量であることだと、
親鸞聖人は讃嘆なされています。

それはすでに釈尊が、出世本懐経たる『大無量寿経』において、
前述のとおり

無量光仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

と、喝破なされているからです。

光明といいますと、何か太陽か電灯の光線のように
誤解する人もありますが、
仏法では仏の念力、仏力をいつも光明と表現いたします。
私たちの目に見えない如来の大願業力、大念力、
智慧をいうのです。

私たち人間でも、その方面の修練を積めば、
ある程度の念力を持つことができることは
今日、催眠術や超能力などによって周知のとおりです。

このように催眠術や超能力は一種の人間の精神力であり、
念力といわれるものの働きであることは、
科学的に説明されるようになりましたが

テレパシー、念写などによれば、
念力は目には見えませんが、
光線と同じような働きや性質があることが知らされています。
例えば、遠方の暗室に置いてある印画紙に向かって、
ある人が一心に何かを念ずると、
その念じたものが瞬時にして、
遠方の印画紙に写るということは、
念力は光のような速度を持ち、
光のような作用を持っていることが分かります。

それにしても2600年以前において、
すでに釈尊は、念力や精神力を光明という言葉で
表現なされた智慧には、今更ながら驚嘆せずにはおれません。

散乱放逸の私たち人間にさえ、
ある修練を積めば相当の念力を持つことができるのですから、
仏の念力、業力は私たちの想像を絶するものです。

阿弥陀仏のズバぬけたお力とは

仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれますのは、
私たちを救わんとする大念力を
体得していられることをいうのですから、
阿弥陀仏が本師本仏とあがめられ、
諸仏の王とされますのは、すでに述べましたように、
阿弥陀仏の光明智慧が諸仏に超過して、
私たちを救済する力がズバぬけているからです。

それは同時に、極悪最下の私たちを
救済することのできる仏は、
阿弥陀仏以外には断じてないことを、
暗示なされた釈尊の金言でもあります。

果たして釈尊は最後に、
「一向専念 無量寿仏」
と、その真意を説破なされています。

これはあらゆる諸仏、諸菩薩、諸神を捨てて、
一心一向に専ら阿弥陀仏一仏を信ずる以外に、
一切の人々の助かる道は絶無なることを
明言なされたものです。

この仏意を受けて親鸞聖人も
一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり
              (御伝鈔)
とまで断言なされています。
蓮如上人また
諸仏菩薩を捨てて、弥陀一仏を一心一向にたのむべし
更に余の方へ心をふらず
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず

とまで断定なされているのも、
けだし当然と言わなければなりません。


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親鸞聖人と三世因果 [Q&A]

仏教は三世因果の教えといわれます。
これは、どんなことでしょう。
親鸞聖人の強調された現在の救いと、
どんな関係があるのでしょうか。
仏教の根本教理は、実に「三世因果」の教えにあります。
これがよく理解されなければ仏教は絶対に分かりません。

まず「三世」といいますのは、
過去世、現在世、未来世のことです。

「過去世」といいますのは、
私たちが生まれる以前のすべての過去をいいます。
「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでのことです。
「未来世」とは、永遠の死後をいいます。
私たち一人一人に、
この悠久の過去と永遠の未来があると
仏教では教えられます。
過去・現在・未来の三世を貫く
生命があると説かれています。

●「生まれた」という結果の原因は?

「過去世や未来世なんか、あるか」
という人もあるでしょう。
しかし、私たちが生まれたということは、
まぎれもない「結果」です。
こんな結果が、どうして生じたのでしょう。

私は、なぜ13億人の中国ではなく、
1億2000万の日本に生まれたのか。
江戸時代に生まれた人、明治に生まれた人、
平成に生まれた人もいます。
大正、昭和に生まれ無理やり戦争にかり出され、
虫けらのように殺された若者もたくさんあります。
平和な世に生を受けていたら、
そんな青年たちの人生は大きく変わっていたでしょう。
地球上、70億の人はあっても、
生まれた時も所も、容姿も才能も、
同じ人は一人もいません。
生涯を左右するこれらのことが、一体、
何によって決まったのでしょうか。

これについて釈尊は、こう説かれています。

「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、
現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば、
現在の因を見よ」
(過去に、どんな種まきしてきたかを知りたければ、
現在の結果を見なさい。
未来、どんな結果が現れるかを知りたければ、
現在の種まきを見なさい、分かるであろう)

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これは、現在を見れば過去も未来も、みな分かる、
悠久の過去と永遠の未来を包含しているのが
現在であるからだと、教えられたものです。

この釈尊の教えによれば、
一人一人の生まれた結果が異なるのは、
70億の各人各様に生まれる前の、各人各様、
異なった原因があったからに違いありません。

「善因善果、悪因悪果、自因自果」
の厳粛な因果の道理に従って、
私たちの過去世の行為が
現在世の私たちの境界(きょうがい)を
生み出したのです。

未来、私はどうなるか?

当然、「過去世」があるように、
私たちには「未来世」があります。

もし「未来世」がないとすれば、
因果の道理に例外を認めねばならなくなるでしょう。
たとえば、ある人が2人殺して死刑になったとします。
2人殺した罪(因)が1回の死刑(果)で償われるとするならば、
10人殺した者は5回死刑にならなければなりません。
そんなことはできませんから、
もし未来世がなければ、2人殺したら
あとは何人殺そうが死刑という結果は
同じということになります。
原因が変われば結果が変わるのが、因果の道理です。
日給1万円の仕事をすれば、
100日働けば100万円もらわなければ
誰も承知しないでしょう。
それが、1日働いても一万円、
100日働いても1万円だといわれては
働く人がないのと同じです。
原因が変わっても結果は同じだという主張は、
三世十方を貫く「因果の道理」を知らない妄言です。

現在世の行為の結果が、たとえ現在世で現れなくても、
必ず「未来世」に現れますから、
「三世因果」は三世十方を貫く真理であると
教えられているのです。

現在は過去と未来を解くカギ

この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、
いかに「現在」が大切か知らされます。

先に述べましたように「過去世」とは、とりつめれば去年であり、
昨日であり、前の一時間であり、吐いた息が過去になります。
「現在世」も、とりつめれば今年であり、
今日であり、今の一時間であり、
今の一息が現在の当体となります。
「未来世」も、これも叩けば来年となり、明日となり、
一時間先となり、吸う息が未来となります。

ですから、仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にあると
教えられるのです。
念々のうちに、三世がおさまっているのです。

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ゆえに、ただ今の一念を徹見すれば、昿劫の間、
流転してきた自己も明らかになるし、
未来の一大事も知らされることになります。

「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
昿劫より已来(このかた)常に没し(もっし)
常に流転して、出離の縁有る事無し』と深信す」
(現在、私は極悪最下の者である。
果てしない過去から苦しみつづけ。
未来、永遠に救われることのない者と
ハッキリ知ることができた

と仰っている善導大師のお言葉でも明らかでしょう。
だから、現在の救いがなくして
未来の救いはないのですから、
現生(現在)不退、平生(現在)業成、
不体失(現在)往生と、親鸞聖人が、
現在の救いを強調されたのは当然でありましょう。

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どうしたら弥陀に救われるのか [Q&A]

(質問)薬を飲むにはどうすればいいのですか?
(弥陀にすくわれるにはどうすればいいのですか?)

・・・・・・・・・・・・・・・
阿弥陀仏のお誓いは、
「聞其名号 信心歓喜」とありますように、
聞いて信ずる者を助けるというお約束ですから、
聞くということが、
阿弥陀仏に救われるに最も大切なことなのです。

これを聞即信といい阿弥陀仏が私たちを絶対の幸福に
救済してくだされる時のことを表す、極めて重要な言葉です。

ゆえに、親鸞聖人も蓮如上人も、
「仏法は聴聞に極まる」と道破なされています。
聴聞といわれますように、
聴もきく、聞もきくということですが、
仏法では聴というきき方と、聞というきき方とを
厳然と区別されていることを、
よく承知していなければなりません。

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(質問)
聴と聞の違いを、詳しく教えてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず、聴というきき方は、
正しい教えを、ただ耳からきいて頭で
合点しているようなきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8、というように、
きいて納得している状態をいいます。
江戸時代の妙好人・庄松同行が、
合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、
きけば合点のゆく教え」
と言っているように、仏教は順序立てて聞けば、
必ず理解できる教えです。

ですからまず、よく納得するまできくことが大切ですが、
合点したことが、助かったことではありませんから、
庄松も、「合点したのは信ではないぞ、
それは知ったの覚えたの」とくぎを刺しています。

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(質問)では、聞とはどんなきき方ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聞というのはどんなきき方かといいますと、
心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が
響きわたるきき方をいいます。

聴は上辺の心が善知識(正しい仏教の先生)のご教化を
きいて合点してありがたがっているきき方ですが、
聞っは下の心のドン底に、
阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。

だから聴は何十回、何百回でもありますが、
聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません。
親鸞聖人はこれを、
“廻心ということ一期に、
ただ一度(ひとたび)あるべし”
と仰っています。
その一度も、ある人で一度であって、
ない人がほとんどです。

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(質問)聞とはどんなきき方ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、
ジカに聞こえた一念で大安心大満足の境地に
おどり出させていただけますから、
この時を聞即信といいます。

即という字は、時を隔てずということですから、
阿弥陀仏の呼び声が聞こえた、その時、
その所で信心歓喜と大安心し、
絶対の幸福にさせていただけるということが
聞即信といわれるのです。

庄松同行はこれを、
「合点せよとは口では言えど、
不思議不思議の外はない」
と言っています。
この驚天動地の一念の体験を
聞即信というのですから、
この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、
聞き抜きましょう。

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タグ:聞即信
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知らずに犯す悪と、知って造る悪とどっちが恐ろしいか!? [Q&A]

(質問)知らずに犯す悪と、知って造る悪とどっちが恐ろしいか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仏教では、悪を悪と知らずに犯す罪のほうが、
より恐ろしい結果を生むと教えられます。
例えて申しますと、
開放性結核を自覚している患者は
自分がタンを吐くことは、
どんなに恐ろしいことかということを知っていますから、
むやみやたらにどこにでもタンを吐くことを慎みます。
たまたま外出した時に不注意でチリ紙もハンカチも忘れて、
やむなく路上にタンを吐いたとしても、
この人はその行為を悪だと知っているのですから、
以後の外出には必ず注意深くチリ紙を忘れずに
持参することになるでしょう。
そうすれば、悪を知っていて犯す罪の結果は部分的であり
一時的なものでおさまります。
これに反して開放性結核にかかり排菌しながらも、
それを知らない患者は何の注意もせず、
至る所でタンを吐いて回ることでしょうから、
その結果は広くて永続的なものになるのです。

●知らずに犯す
   罪の恐ろしさ

阿難尊者がある時、釈尊に
「知って犯す罪と、知らないで犯す罪と
どちらが恐ろしいのでしょうか」
と、質問したことが『ミリンダ王所問経』
の中に出ております。
その時釈尊は、
「それは知らないで犯した罪のほうが重くて恐ろしい」
と、キッパリと答えられています。

阿難がその理由を尋ねると、
「おまえは焼け火箸を焼け火箸だと知って握る人と、
焼け火箸だと知らないで握る人と、
どちらが重い恐ろしい火傷をすると思うか」
と反問されました。
阿難は即座に、
「それはもちろん、焼け火箸と知らないで握った方が、
よりひどい火傷をいたします」
と答えると、釈尊は、
「そのとおりである。人は自分のしていることが罪悪だと
知らないために、いつもその罪を重ねることになるから、
一層罪が重く恐ろしいのだ」
とお諭しになっています。

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●シュリハンドクの悟り

あの有名なシュリハンドクが、釈尊の仰るとおり
20年間黙々と掃除三昧の結果、
チリやほこりはあると思っている所ばかりであるのではなく、
かえってこんな所にあるものかと思っている所に、
意外にあるものだということを知り、
「私は愚かであると思っていたが、
私が愚かなのは愚かだと思っているところばかりではなく、
むしろ自分の気づいていないところにこそ、
どれほど愚かなところがあるか分からないのだ」
と知らされて悟ったといわれています。
(※悟るとは阿弥陀仏に救われたこと)

私たちも同じことで、
私たちが悪だと自覚している悪は、
まさに氷山の一角で知らずに犯している罪悪が
いかほど重く、恐ろしいものであるかを、
仏法の法鏡によって
よくよく見せていただかなければなりません。

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