お釈迦さまの教えられたことを正しく知っていただきたいと思います。
今日の金言
当流の真実の宝というは
南無阿弥陀仏、
これ一念の信心なり
(御一代記聞書)
この世の宝は、いつか壊れる。
喜びも色あせ薄れ、消えていく。
大宇宙最高の宝・南無阿弥陀仏と一体になれば、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
無上の幸せがいつも満ちていると、
絶賛されています。
どうしたら弥陀に救われるのか [Q&A]
(質問)薬を飲むにはどうすればいいのですか?
(弥陀にすくわれるにはどうすればいいのですか?)
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阿弥陀仏のお誓いは、
「聞其名号 信心歓喜」とありますように、
聞いて信ずる者を助けるというお約束ですから、
聞くということが、
阿弥陀仏に救われるに最も大切なことなのです。
これを聞即信といい、阿弥陀仏が私たちを絶対の幸福に
救済してくだされる時のことを表す、極めて重要な言葉です。
ゆえに、親鸞聖人も蓮如上人も、
「仏法は聴聞に極まる」と道破なされています。
聴聞といわれますように、
聴もきく、聞もきくということですが、
仏法では聴というきき方と、聞というきき方とを
厳然と区別されていることを、
よく承知していなければなりません。
(質問)
聴と聞の違いを、詳しく教えてください。
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まず、聴というきき方は、
正しい教えを、ただ耳からきいて頭で
合点しているようなきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8、というように、
きいて納得している状態をいいます。
江戸時代の妙好人・庄松同行が、
「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、
きけば合点のゆく教え」
と言っているように、仏教は順序立てて聞けば、
必ず理解できる教えです。
ですからまず、よく納得するまできくことが大切ですが、
合点したことが、助かったことではありませんから、
庄松も、「合点したのは信ではないぞ、
それは知ったの覚えたの」とくぎを刺しています。
(質問)では、聞とはどんなきき方ですか?
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聞というのはどんなきき方かといいますと、
心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が
響きわたるきき方をいいます。
聴は上辺の心が善知識(正しい仏教の先生)のご教化を
きいて合点してありがたがっているきき方ですが、
聞っは下の心のドン底に、
阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。
だから聴は何十回、何百回でもありますが、
聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません。
親鸞聖人はこれを、
“廻心ということ一期に、
ただ一度(ひとたび)あるべし”
と仰っています。
その一度も、ある人で一度であって、
ない人がほとんどです。
(質問)聞とはどんなきき方ですか?
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この阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、
ジカに聞こえた一念で大安心大満足の境地に
おどり出させていただけますから、
この時を聞即信といいます。
即という字は、時を隔てずということですから、
阿弥陀仏の呼び声が聞こえた、その時、
その所で信心歓喜と大安心し、
絶対の幸福にさせていただけるということが
聞即信といわれるのです。
庄松同行はこれを、
「合点せよとは口では言えど、
不思議不思議の外はない」
と言っています。
この驚天動地の一念の体験を
聞即信というのですから、
この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、
聞き抜きましょう。
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